空っぽの腕で何を抱き寄せるのか? 〜Official髭男dismの『アポトーシス』を語る〜

 

ヤバい曲に出会ってしまった、その衝撃のままここに諸々綴ろうと思います。

どうも、『Sounds Good!!』管理人、真珠丸です。

 

今回はOfficial髭男dismの『アポトーシス』という楽曲について、個人的な歌詞の解釈などを書いてみることにします。

音楽、歌詞について、あれこれ分析して解説するのは野暮なことだとは思いつつも、この曲に出会った衝撃があまりにも凄かったので、思いを昇華する意味でもここであれこれ語ろうかなと思い至りました。

とりあえず、iTunesYouTubeのリンクを貼っておくので、「まだ聴いたことないぜ」「もう1回聴いておこうかな」という方はぜひ聴いてみてくださいませ!

 

アポトーシス

アポトーシス

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今回は歌詞の解釈の話なので、歌詞を見ながら「ふーん」と思いつつ目を通して頂ければ幸いでございます。全部個人的な解釈なので、「そんなこと思った人もいるんだな」程度で見てくだされば・・・。サウンド的な話で語りたい点も山ほどあるのですが、「誰が読むんかい」というボリュームになりそうなので、一旦歌詞の話だけします。

そして、あまりにも深掘り要素が多いので、ある程度掻い摘んで、特に印象的だった部分や「すごい!ヤバい!」と個人的に響いた部分について話そうと思います。

 

 

 

前提

この曲が何を主題として歌っているか、っていうところについて。

夜から朝に向かう一晩の変化を通して、人生が終わりに向かっている様を表しているように読み取りました。簡単に言えば、テーマは「死」です。

単純に、夜が明けて朝になったってだけの曲じゃないよね、というところの認識を共有しておきたく思います。

ただ「死」という言葉は1回も使われていないのが見事です。具体的な言葉で抽象的な概念を表す、そういう歌詞が大好きな人間としては、この上なく最高の言葉の並びです。

 

訪れるべき時が来た もしその時は悲しまないでダーリン

という歌詞や、所々に出てくる「さよなら」「別れの時」という言葉、そして

恐るるに足る将来に

普通この言葉を使う時は「恐るるに足りない」の形ではないかと引っかかったのですが、それほどの畏怖の対象として将来的に存在するものといえば、そりゃもう「死」以外ないなというところで、私はこの曲のテーマの1つとして「死」が存在していると判断した次第です。あと『アポトーシス』という曲名からしてもそうですよね、死の話ですよね。でも死の話をするということは、逆説的に生きることを歌っているということでもあります。

 

 

Bメロの言葉の選び方、運び方の美しさ

1番、2番のBメロについて考察します。

まずは1番のBメロから。

 

さよならはいつしか 確実に近づく

落ち葉も空と向き合う蝉も 私達と同じ世界を同じ様に生きたの

 

死んだ蝉について「空と向き合う」という表現をしているのは初めて見ましたが、すごく美しい表現だと思いました。私が最初にこの曲を聴いた時、1番印象的だった歌詞もここです。

この後にサビが続きますが、サビの初めに「お祭り」という歌詞が出てきます。落ち葉やひと夏の命を全うした蝉、つまりは「死んだ生き物」を謳った後に、人の生命力の結晶のような「お祭り」という歌詞に繋がっていく、そのあまりにも激しいギャップに、ただただ凄いと、そんな感想しか抱けなかった。

あとは個人的なイメージですが、「蝉」と「空(そら)」は相性がとてもいい言葉で、歌詞を文字に起こした時にさらに想像力がかき立てられる歌詞だなと思いました。「空蝉」という言葉がありますが、そういうのも込めているんだろうなと。サビの「空っぽ」とも繋がりますね。

ここではまだ「死」を理解も受容もし切れていない様子が描かれている、というのが私の解釈です。多分、1番のBメロ、サビは若い頃や青春時代のことを表しているんだと思いますが、自分の人生において「死」はまだ遠い先のことで、それについて考えたり悩んだりすることもあんまりないし、何なら考えたくもないこととしてとらえられてるんじゃないかなと。

 

そして2番のBメロ。

 

さよならはいつしか 確実に近づく

校舎も駅も古びれていく 私達も同じだってちゃんと分かっちゃいるよ

 

1番のが若い頃や青春時代の話であるなら、2番は大人になってからのことを表しているのだと思います。「死は必ず遠からぬ将来やってくるものだ」と理解はしているけれど、受容はできていない、そんな繊細な戸惑う様子が描かれているのが2番と言えそうです。

「私達も(いつか年老いて死ぬことが、校舎や駅と)同じだってちゃんと分かっちゃいるよ」という歌詞ですが、この「分かっちゃいる」が要で、「分かってはいる」「けれど受け入れられてはいない」んですね。だから、「校舎」や「駅」という、生き物ではないものと同じだと言っている。1番の生き物と2番の建物の描写は対になっています。厳密に言えば、私達の命や死は「建物」と同じではないのです。同じなのは「落ち葉や空と向き合う蝉」の方なのです。なのにここで建物を引き合いに出しているのは、「落ち葉や空と向き合う蝉」と同じだと認めたくないからではないでしょうか。

「同じ」という歌詞が両方に共通しているのも面白くて、前者は「同じ?」というニュアンスなのに対し、後者は「同じ(だけれども受け入れられない)」という微妙な心の変化が表れているんですよね。

ちなみに、なぜ「校舎」と「駅」なのかというところについては、「校舎=学生時代=青春時代・若い頃」と「駅=通勤=社会人=大人」みたいなところを表現してるんじゃないかなと。憶測ですが。

 

あと、Bメロではもうひとつ注目すべき点があります。共通している歌詞です。

 

さよならはいつしか 確実に近づく

 

1番は若い頃、2番は大人という話をしましたが、両方に共通している歌詞がこの部分です。1番2番の全体を通して見ても、全く同じフレーズが使われている箇所はここしかない。

多分、「死の不変性」を表しているんじゃないかと思います。若かろうが歳をとろうが、いつか必ず死ぬという事実は変わらないという、いわばこの曲の主題みたいなのが込められてるんだろうなと感じました。

 

言葉ひとつひとつが美しく、また意味を持ち、後の歌詞に繋がっていくんですよね。とんでもない言葉の選び方のセンスだなあと、聴く度に氷水を浴びたかのような衝撃を受けております。

 

 

サビを考察する

先程の章で繰り返し「1番は若い頃、2番は大人」という考察をしていますが、これはサビを見ても汲み取れることかと思います。

例えば1番のサビの最後の方、

 

鼓動を強めて未来へとひた走る

 

「未来」がある時点で若者ということはまず断定しても良さそうです。「ひた走る」という言葉もエネルギッシュ。

 

なるべく遠くへ行こうと 私達は焦る

 

「死から遠ざかりたい」という願望の表れともとれる歌詞です。ちなみにこの歌詞は後ほど詳しく解説する箇所があるのでここでは流します。

 

別れの時など 目の端にも映らないように そう言い聞かせるように

 

「死から目を背ける」様子が伺えます。先程も書いた「1番(若い頃)は死に対して『理解も受容もできていない』」というのはこのあたりが根拠でもあります。

 

続いて2番のサビに移ります。

私は2番のサビの歌詞が1番好きです。

2番は大人になってからの話ということで、それはこの辺りから読み取れるでしょうか。

 

今宵も明かりのないリビングで 思い出と不意に出くわし やるせなさを背負い

 

やるせない気持ちになるような思い出に出くわすくらい、人生の経験値を積んだというところから、社会人以降の人生や大人になってからのことを歌っているのだと判断できます。

そして、「死を理解しているが、受け入れられてはいない」というのは

 

解説もないまま 次のページをめくる世界に 戸惑いながら

 

「解説」、どう生きればいいのか、どうやって死と向き合うべきなのか、いつ終わるのか。それがわからない人生という「問題集」は次から次へとページがめくられていく、進んでいく。それに対する困惑する気持ちが描かれた、この辺りから推測できます。2番のサビは、全体的に少し薄暗い雰囲気で、拭いようのないやり場のない気持ちで覆われているようです。これがまた最高なんだな…。

2番のサビは言葉が掛かりまくっててすごく良いので、もう少し掘り下げて見てみましょう。

 

今宵も明かりのないリビングで 思い出と不意に出くわし やるせなさを背負い

水を飲み干しシンクに グラスが横たわる

空っぽ同士の胸の中 眠れぬ同士の部屋で今

水滴の付いた命が今日を終える

解説もないまま 次のページをめくる世界に 戸惑いながら

 

「鐘」や「お祭り」といった歌詞が散りばめられた、神聖なイメージのある1番、ラスサビとは対照的な作りになっていて、人間の生活らしい描写が目立ちます。まさに、聖と俗の対比です。見事すぎる。あまりにも情景的で、絵がありありと浮かぶところがすごい。重苦しい描写なのに美しささえ感じます。

 

水を飲み干しシンクに グラスが横たわる

空っぽ同士の胸の中 眠れぬ同士の部屋で今

水滴のついた命が今日を終える

 

ここは後にも繋がってくる歌詞です。特徴的なのは「水」の描写。生命の維持に不可欠な水は「生」の象徴ととらえられます。

「(水を飲み干して空になった)グラスが横たわる」は「生命がなくなって死を迎えた様子」を婉曲的に表しているように見えます。「グラス」という言葉の選び方も実はすごくて、「壊れ物」というグラスの特徴が「命」にも共通しているんですよね。いつか割れて壊れる。物であるグラスに対して「横たわる」という、いわば擬人法のような表現をされているところが引っかかってあれこれ考えた結果、そういうことなのか!と納得しました。そして、「グラス」は1番Bメロの「蝉」と同様に、今度は「空(から)」と相性がよくて、繋がっているんですよね。いやー、すごいな。同じ漢字に収束するという。

しかもここから「水滴の付いた命」という歌詞にも繋がるんです。この曲の中で最も生命力の溢れた言葉だと感じました。繊細に全てが繋がっていく、鮮やかで美しい言葉のリレー。涙が出そうになります。

「空っぽ同士の胸の中」は1番のサビと同じ歌詞で、人生が地続きであることを表しているように思います。

次のポイントである「眠れぬ同士の部屋で今」ですが、これは最後の歌詞を解説するところに残しておきましょうか。「眠り」とはなんなのか、そのあたりの考察で触れようと思います。

 

全てを包括する最重要ポイント、ラスサビ

ラスサビが本当に見事で、素晴らしくて美しくて、久々にこんなに心震える歌詞に出会ったなあ、生きてて良かったと(奇しくも死を謳った曲なのに)思ってしまいました。

 

今宵も鐘が鳴る方角は お祭りの後みたいに鎮まり返ってる

焦りを薄め合うように 私達は祈る

似た者同士の街の中 空っぽ同士の腕で今

躊躇いひとつもなく あなたを抱き寄せる

別れの時まで ひと時だって愛しそびれないように そう言い聞かすように

 

私が「これはすごい!!!」と思った歌詞は2箇所あり、6分半程ある曲の中で最も核心に迫る箇所だと思いますので、そこを中心に語らせて頂きます。

 

まずは

焦りを薄め合うように 私達は祈る

ここは、1番2番の歌詞を見事に踏襲した歌詞になっているのがお分かり頂けるでしょうか。

 

1番のサビの同じ箇所の歌詞は

 

なるべく遠くへ行こうと 私達は焦る

 

「死」から遠ざかろうとする若い頃の心情を表しています。「死から逃れたいという恐怖心からくる焦り」、自分がいつか死ぬことがわからない、受け入れられないという気持ちです。この部分の「焦」りという言葉がラスサビでも使われています。

 

そして、2番の歌詞を見てみましょう。

 

水を飲み干しシンクに グラスが横たわる

 

水を飲むというこの描写、一見無関係そうに見えますが、そうです、「薄め合う」に掛かっています。2番では、「死ぬことは理解した、でも受け入れられない」という心情が中心に歌われています。

 

1番、2番での心情の流れ、変化。それが凝縮されたのが、ラスサビの、このたったの12文字なのです。言葉が言葉を呼び、クライマックスにまでその効力を発揮している。巧みすぎる。すごすぎる。美しすぎる。歌詞を見てこれ程衝撃を受け、作詞した方の技巧にひれ伏す気持ちになったのは、初めてかもしれません。そのくらいすごい。いや、もう、見事としか言いようがない。

 

すみません、まだこの歌詞には続きがありますね。

「(死への恐怖からくる)焦り」を「薄め合う」ようには「祈る」しかないのです。「祈る」という行為自体には実質的な効力はないです。逃げるわけでも絶望するでもなく、「死を避けられないものだと受け入れる」。そう、ラスサビでのポイントはここで、今まで受け入れられなかった死を「受け入れる」というところです。6分半の曲の中で、人生における「死」に対する感じ方の変化を、最後の最後まで見事に表しています。それが読み取れる歌詞の1つ目が上記で説明した部分の歌詞です。

 

1つ目ということは2つ目もあるの?と思った貴方、大正解です。まあその後の歌詞は全部そういう歌詞ではあるのですが、私が「ここは考察したい」と思った歌詞がこちらです。

 

躊躇いひとつもなく あなたを抱き寄せる

 

普通にすごくいい歌詞なのですが、個人的にとても引っかかるポイントがありました。

「あなた」という歌詞、この曲ではここにしか出てこないんです。そこで抱いた疑問は

「あなたって誰?」

です。個人的には2通りに解釈しました。(これは多分両方を含有してるんじゃないかなと思ってますがどうなんでしょうか、深読みしすぎですか?)

 

1つ目は「愛する人」のこと。多分、これは1番スタンダードな解釈かと思います。その後の歌詞が「別れの時までひと時だって愛しそびれないように」なので、とても順当で真っ当な解釈です。「空っぽ同士の腕」というところとも整合性が取れます。

 

ですが、これだと何点か疑問が残るなと思ったのです。まず、「愛する人」のことはAメロで「ダーリン」と表記している点です。ただこれについては、強調の意味を込めて、ここで改めて「あなた」という表記をするのもありな気がするので、何とも言えないなというのが率直な気持ちなのですが。

そして、2点目が「抱き寄せる」という歌詞。「人同士だったら『抱きしめる』にならないか?」という疑問です。「抱き寄せる」という言葉は、あくまでもニュアンスレベルの話ですが、「自分から少し離れた人やものを、自分の近くに引き寄せるようにして抱きしめる」という意味合いがあるかと思います。愛する人が自分から離れたところにいるとは思えないし、もし自分だったらストレートに「抱きしめる」という表現をするなと。じゃあ、「抱き寄せる」という歌詞にしたのには何らかの意味があるのではと考察した次第です。

自分から離れたところにあったもの。今までは戸惑っていたのに、躊躇いひとつもなく抱きしめられるようになったもの。「死」です。「あなた」は「愛する人」と「死」の両方を掛けている。

「死」を「抱き寄せる」、つまり死を受容した瞬間を歌ったのがこの歌詞である。これが私の解釈です。

そう解釈すると、愛する対象は、「愛する人」に限定していないのではないか、もっと広義な意味でとらえられるのではないか。つまり、死を迎えるその時まで「あなたを」「自分を」「世界を」ひと時も愛しそびれないようにという意味を込めた歌詞がこの部分だと考えました。

「そう言い聞かすように」というところに死への恐怖が垣間見えますが、それでも最後の瞬間まで愛し続けようという決意が見て取れます。やはりここでちゃんと「愛」に繋がるのか…。

 

憶測ですが、ってまあこの記事は全部憶測ではあるんですが、ひとつの歌詞が両方の意味に取れるようにきちんと計算して作られているんじゃないかと思います。いやー……もう…あまりにもですよね、すごすぎて。すごいと言葉にすることすらおこがましいと思ってしまう。

 

 

「眠り」と「死」と「朝」

ラスサビ後の、1番最後の歌詞を見てみましょう。

 

訪れるべき時が来た

もしその時は悲しまないで ダーリン

もう朝になるね

やっと少し眠れそうだよ

 

最初の2行は1番初めと同じですが、ここまでの歌詞を追って見てみると、少し違った印象を受けますね。

ここで考えたいのは、「眠れそうだよ」という歌詞です。ただ一晩の出来事を歌っているのであれば、辞書通りの「睡眠」ですが、人生のことを歌っているのであれば、恐らくは「死」を表していると考えられます。

 

「眠り」が「死」であるならば、2番のサビの歌詞もさらに深まった解釈ができます。

「眠れぬ同士の部屋で今」この歌詞には、「死ねない」「死んでいない」人間であるという意味合いが加わり、2番サビのやるせなさを助長させるような働きをしているとも言えそうです。

個人的には「死ねない」の方かなと思います。「解説もないまま〜」以降の歌詞、生き方の正解もいつ死ぬのかもわからず続く日々への戸惑い、「勝手に終わらせることもできない日々への困惑」とも合う解釈な気がします。

 

若干脱線しましたが、最後の歌詞の話に戻りましょう。

「眠り」が「死」であるという解釈に基づくと、この歌詞には「おや?」と思う箇所が出てきてしまうのです。それが

 

もう朝になるね

 

です。死と朝が結びつく、そんな表現は珍しい気がします。どちらかといえば「死=夜」の方が一般的だと思います。「眠り」と結びつくのも夜の方ですよね。

この曲のすごいところ、最後のポイントはここで、「生=夜」「死=朝」という、既存概念を覆す比喩をはらんでいるところです。

前提の部分で「夜から朝に向かう一晩の変化を通して、人生が終わりに向かっている様を表している」という話をしました。まさにその通りで、曲の終わりとともに人生も終わるんです、多分。その根拠としては、これはまあサウンド的な話になってしまいますが、「時計の音」に着目して頂ければわかるかと思います。最後の最後、演奏が終わったその後、時計が止まる音が微かに入っているのに気が付いたでしょうか?一番最初のメロディーが始まったところでは、曲のBPMに合わせて時計の秒針音が聞こえますが、最後は時計が止まるんです。「最後の1秒」を表しているとも言えます。曲の終わりとともに人生も終わりを迎える、そんな表現が詰まっています。

サビに出てくる言葉は全て夜です。歌い出しが全て「今宵も」なのです。死を理解も受容もできなかった若い頃、死が自分の身にも降りかかるものだとわかっていても受け入れられなかった大人になってから、そして死を受容できた瞬間。生きている時間は全て夜であり、「終わりを迎える=死ぬ時」に朝を迎える。

斬新ではあるのですが、違和感はないのですよ。なんでなんだろうか。生活していてふと脳裏をよぎる思い出は絶望的なことばかりだからか。生きていて、良いこと、楽しいことはたくさんあるけれど、苦しいことや悲しいことや絶望的なことの方が心に残りやすいからか。生きている毎日が暗い夜のような日々という比喩は正しいのかもしれない、そう思います。大人になってから、なおさら。

そう考えると、死を迎えて人生をリセットするという意味では、死=朝というイメージもその通りだと言えます。最後の最後まで、考えずにはいられない歌詞が続いています。歌詞に深掘りが必要ない箇所がひとつもない。全てが流れるように繋がり、心の機微が鮮やかに表現されているこの曲、本当に本当に素晴らしい曲だと思います。

 

 

 

 

長々とあれこれ考察してみました。個人的な感想等を最後に書いておこうと思います。

私は、いわゆる青春時代にBUMP OF CHICKENAqua Timezのような、「生きるとは?死ぬとは?」ということを延々鬱々と考えるような楽曲を好んで聴いていました。暗い青春です。だからか、この『アポトーシス』という曲でテーマとしているものについては、ものすごく親しみを感じたというか、波長が合ったというか、一聴しただけで「これはヤバいやつだ」とビビビときたのです。「好きな曲」でも「良い曲」でもなく「ヤバい曲」。ハマる時の兆候です。

私はハマるとそれしか聴かない習性があり、今回も御多分に漏れず、ここ5日間位ひたすらずーっと聴いています。誇張なく一日中聴いています。でも飽きない。聴く度に心が震えて、熱い気持ちになる。新しい発見がある。作った人がどれくらい魂を込めて作ったんだろうか、歌詞はどれくらい考えて思いを詰め込んで書いたのだろうか、とか、とにかくそればかり考えてしまいました。寝ても覚めてもこの曲のことを考えてしまう、そんな時期が現在進行形で続いています。

そんなふうに思える音楽に出会える瞬間は、人生で最も幸せで最高な瞬間です。生きててよかったと、こんなに素晴らしい曲に出会えるなんて、人生捨てたもんじゃないなと心の底から思います。

あと、正直、ヒゲダンの音楽でこんな氷水ぶっかけられるような経験をするとは思いもしていませんでした。油断していた。防具つけずに試合に挑んで、ボッコボコに叩きのめされた気分です。すごいバンドだなと改めて思いました

『Editorial』も全部聴きました。ここまで頑張って解説したせいで語彙力ゼロの表現になってしまい申し訳ないですが、すごい曲がいっぱいあった。でも『アポトーシス』が突出して良かったと思います。また、他の曲と少し毛色の違う曲だと感じています。ヒゲダンの曲は「愛」を謳った曲が多いイメージです。それがダイレクトに伝わる曲がたくさんあると思います。それ故に「死」を扱ったこの曲は少し雰囲気が違うというか。

初めはその温度差に違和感を持ちました。でも、「いつか死ぬその時まできちんと愛せるように」というクライマックスでのメッセージは、もしかしたら他の曲のベースになっている考え方の表れなのかもしれない。そういった意味では、この曲がアルバムの2曲目、そしてリード曲として存在していることにも頷けます。とんでもない挑戦だとは思いますが、そんな勇気にも賞賛を送りたい気持ちです。

アポトーシス』、何度も繰り返し書いていますが、言葉選びが美しく、描写も秀逸で、久々にこんなに熱く語りたくなるような曲に出会えた気がします。初めて聴いた次の日には歌詞を全てルーズリーフに手書きで書き写し、どこがどうすごくて、繋がっていて、感動的だと感じたのかを分析していました。そうせずにはいられなかった。あまりにも素晴らしくて、この感動を誰かに伝えたい!もっと他の人にも聴いてもらいたい!そう思って今回筆をとった次第です。

私はこの曲について、メンバーのインタビューや他の人の考察記事等は一切見ておりません。ここに書いたのは純度100%の私の主観であり感想であり憶測です。全部書き切ってから他の記事を読もうと思っていたので。これからゆっくりインタビュー等を読んでみて、さらに考察が深まったら追記していこうかな、なんて思っています。

 

結局歌詞のこと書いただけでも「誰が読むんかい」というボリュームになってしまいました。最後まで読んでくれたあなたが素敵な夜を過ごせますように。

ご静聴ありがとうございました。

 

 

(出典元:『アポトーシス』 作詞:藤原聡)

 

 

 

追記1 (2021.9.22)

この記事を書いてから、他の人がどんなことを考えて聴いたのかが気になり、いくつかブログや音楽メディアの記事等を拝見しました。

その中で1つ「その視点は欠けていた!」と気付いたものを記載します。

タイトル『アポトーシス』の意味です。

「プログラム細胞死」という意味であると本人たちは様々なインタビューで答えています。

それがどういう意味なのか、分かりやすく、「なるほど!!」と思った記事は以下です。

Official髭男dism『Editorial』というアルバムの正体ーーヒゲダンの新たな試行錯誤が詰まったマスターピース - Real Sound|リアルサウンド

 

「限られた人間の命の営みを地球のプログラム細胞死になぞらえて描いた」というところです。地球がひとつの「身体」だとして、ひとりひとりの人間や生き物や建物が、地球を構成している「細胞」であるということ。そして、その「細胞」はいつか終わりを迎えること。

そういう視点から考えると、Bメロの「落ち葉や空と向き合う蝉」「校舎や駅」と「私達」が同じという歌詞は、文字通りの意味で解釈できるのか!と目から鱗が落ちました。

私はこのタイトルについては「いつか必ず死を迎える」という意味でしか取ってなかったので、「細胞」というところにどんな意味があるのかという視点が抜けていたなと気が付きました。

 

 

追記2 (2021.9.22)

他の方のブログと自分の記事を比較した時に、「自分と同じ解釈の人はあまりいないな」という印象を受けました。「一晩の葛藤を描いた曲」「愛する人と死について歌った曲」といった趣旨が大多数なようで、まあ似たような点はあるのですが、「こんなこと考えてるのは私だけなのか…」と思う部分もありつつ。まあその違いも楽しみのひとつなのですが。

少しでもいろんな人の考えを知りたいと思い、元よりヒゲダンのファンである友人に『アポトーシス』の感想を聞いてみたところ、「(サウンドが凄すぎて、歌詞は)よく分からなかった」と言われました。それならば!と私のブログを読んでもらい、オンラインであれこれ会話しました。公開処刑かとヒヤヒヤしましたが、「聴き方が変わった!」と感想を頂けたので書いて良かったと思いました。

 

友人に指摘されたことでなかなか興味深いことがありました。

「私の歌詞の見方が独特(他の人と違う)故に、他の人がしない解釈を繰り広げているのではないか?」ということです。

ここまで長々と私の記事を読んでくださった方はお分かりかと思いますが、私は曲のいろんな部分を対比する形で分析しております。例えば、1番と2番のBメロ同士を対比したり、サビだけをピックアップして深掘りしたり。

これは、この曲を数回聴いた時に幾つか引っかかる言葉があり、単語レベルのミクロ視点と全体を俯瞰するマクロ視点の両方で曲を眺めたい!と思い、手書きで歌詞を写してあれこれ考えていたことに起因しているように思います。繋がっている言葉を線で結んだり、共通する言葉を四角で囲ったり、さながら大学受験の時にやった、英語や国語の構造読解の様子を呈しておりました。

考えてみれば、今歌詞を見る時って、歌詞カードのような紙媒体で「歌詞の全体像」を見ることは少なくなっている気がしますね。

大体ネットで検索して、PCやスマホの画面をスクロールし、上から下へ一方的に追っている気がします。なるほど、私の歌詞の見方は変わっているのか。これも私ひとりでは気付かなかった視点です。

 

ただ、歌詞は多角的に見た方が面白いと思いますね。

作詞をしたことがある方ならわかると思いますが、曲の頭からスラスラ歌詞が書けることなんて多分そうそうあることではないです。

「1番のAメロでこの音、この音数だから、2番のAメロもそれに合わせよう」とか「ここはさっきの歌詞を踏襲した言葉を入れてみよう」とか、いろんな部分を行ったり来たりしながら、全体像を見てバランスをとって、時には遊び心を含ませたりもしつつ作って行くんじゃないかと推測します。

まあ解釈なんてものは個人に委ねられているものなので、そんなに作者に寄り添う必要もないんじゃないか、というのは至極真っ当、尤もな意見なのですが。

個人的には、ミクロ、マクロ、聴き手の視点、作り手の視点…いろんな視点から曲を見た方が、より深く楽しめるし、よりその曲を大切に聴けるようになるのではないかなと思っています。

 

 

追記3 (2021.9.24)

「この曲で歌われている死について、私の死なのか?愛する人の死なのか?」という疑問が存在しうるなということに気付きました。今日目が覚めた瞬間にひらめいたのですが、寝ている間何を考えていたのか、甚だ疑問です。

私は基本的に、どちらの死がどうこうという話ではなく、「死という概念そのもの」について歌われているのだと考えておりますが、強いて言えば、「私」の方に寄った解釈をしていました。

これ、実は「愛する人の死」の視点でも整合性が取れるんですよね、それに今日気付いてしまいました。追記する予定はなかったのですが、メモ程度に残しておきます。

 

 

追記4 (2021.9.24)

やはり作り手の心中が気になってしまい、雑誌を買って読んでみました。『Talking Rock!』9月号と『ROCKIN'ON JAPAN』10月号です。

2冊を読んで、最も印象的だったところを記しておきます。

まずは『Talking Rock!』から。ギターの小笹さんが話されているところです。

(『Editorial』全体について)

「万人がこの1曲を大好きだと言ってくれなかったとしても、大好きだと言ってくれる人が絶対いるだろうなと思える楽曲の集まり」

 

「例えばアルバム1枚を通して全曲を一度に好きになってほしいとかは思わないんですけど、聴いてもらったら絶対人生のどこかで刺さるフックみたいなものが全曲にあると思うんです。」

 

…フックが突き刺さってしまった人は私です。『アポトーシス』は特にそういう曲なのではないかと思います。

 

続いて、

『ROCKIN'ON JAPAN』から。こちらも小笹さんのインタビューです。

(『アポトーシス』について)

「詞って、すべてを書かなくても、想像力に委ねることができるじゃないですか。

(中略)

みんなが思ったこと、それから、これから思うことが絶対にあるテーマだと思うんですけど、その中で、言葉にしたいけどできなかったことを、ちゃんと表現してくれつつ、そこを言い切られたら困るみたいなことには、きれいに触れていないっていうか。詞でできる表現のいちばんすごいところを縫っていったんじゃないかな。」

 

詞だからできる表現の真骨頂だという風に話されています。同感です。全く同感です。

 

あと、藤原さんがその後に「怯えているまま楽曲が終わる」と話されていたので、私の解釈は深読みしすぎたのか…と思いつつ。まあ解釈も感想も、曲から得るものは個人に委ねられたものなのでまあいいかという気持ちです。

 

 

追記5 (2021.9.24)

今まで、Official髭男dismの曲で特にピンと来る曲と出会っておらず、故に彼らのことを特段知ろうと思ったこともあまりなかったのですが、『アポトーシス』で完全に「気になる存在」となってしまいました。

先日買い物ついでにタワレコで『Editorial』を見かけ、サブスクでは勿論全部聴いたのですが、「こんな素敵な音楽に出会わせてくれてありがとう」という感謝の気持ちと、「やはり素晴らしいアルバムは手元に置いておきたい」という思いが強まり、購入するに至りました。缶バッジとポストカードも付属していて、またこのポストカードにも、こちらが「恐れ入りました」と思うようなことが書いてあり、さらにさらに「気になる存在」となっています。

昔の曲もいろいろ聴いたり、Twitterを覗いてみたり、どんどん興味が深まり、バンド名を見るだけで心なしかドキドキしてしまうような、潤いのある日々が続いております。もしかしてこの気持ちって……??(ここで星野源『恋』が流れる。)

 

関係ないですけど、Official髭男dismの曲が今これだけ多くの人に支持されているその背景には、星野源が切り拓いてきた「日本のポップが一般聴者に受け入れられる土台」があると思っていたりいなかったり。まあこの辺の話はそんなにまとまっている訳ではないので、軽く聞き流して下さいませ。

構成とか雰囲気を見る限り、ヒットしている曲全てが万人受けするような曲ではない印象が強いので、例えば10年前だったらどうだろう?などといろいろ考え始めてしまいます。バンドとしてめちゃくちゃ面白いことをやっているのは100%事実なんだけれども、じゃあそれが所謂「お茶の間ウケ」するかというと全く別の話であって。バンドとしては最高な演奏をしているのに売れないバンドなんてごまんとあるのです、悲しいですが。

昨日偶然見ていたスペースシャワーTVの歌詞検索ランキング、1位が『Cry Baby』でしたが、この曲はまさにスーパー高度なことをやっている面白い曲で、頭には残るし口ずさんでしまうんだけど、普通じゃ考えられない曲構成をしているのです。転調の概念を覆すつくり。音楽に対してライトな層が聴くにはあまりにヘビーな曲だなと思うのですが、そうさせないのは彼らの技量か、はたまた日本の音楽シーンの変遷が生み出した産物か、その両方か。

タイアップの影響もあるとは思うけれど、それにしても勢いが凄い。このままどこまでも行ってくれ!という気持ちで全力応援しております。

 

 

(引用、参考:『Talking Rock!』9月号

『ROCKIN'ON JAPAN』10月号)