白と黒の向こうから

いよいよ秋…を通り越して冬のような気温になってきました。

どうも、『Sounds Good!!』管理人の真珠丸です。

今回は雑談回です。

※若干重い話が多いので、読んでいて気分が優れなくなったら逃げてください。

 

10月から仕事を再開しました。今のところ大丈夫です。程々に頑張ります。昼休みに本を読むことが日々の楽しみとなっております。

最近の紙の本は高すぎるので、近現代の日本文学を読んでいます。あんまり読んでこなかった分野なので面白いです。

今のところ読んだのは夏目漱石の『こころ』と太宰治の『人間失格』という、ザ・スタンダードな文学作品。これから宮沢賢治三島由紀夫坂口安吾を読みます。あとは、これは近現代の日本文学じゃないけど、実家から持ってきた本多孝好の『MONENT』シリーズを読みます。今まで読んだ本の中で5本の指に入るくらい好きな本。

今年読んだ本の中で1番良かったのは凪良ゆう『流浪の月』でした。結構本を読んだ1年だった。新しい本はKindleで買ってしまう。本、昔こんなに高くなかったよなあと複雑な気持ちになりながらいつも買っています。ハードカバー1冊買うお金で米5kg買えない?だったら米買おうかなってなってしまうことが時折あります。趣味や好きなものに使うお金を削って生活費に充てるような生き方は良くないなと思いつつ。

 

話のネタとして書くことは不謹慎なんじゃないかと思う気持ちがあるけど、自分の中できちんと考えを昇華させておきたいとも思う、そんな話があるので、ここに記しておきます。

以前の職場、「死ぬ程人を働かせる職場だな」と思っていたのですが、本当に人が亡くなってしまったそうで。

それを上司から聞いてどうしようもない気持ちになって、「なんで?」と聞いてしまいました。私は死因が聞きたかったんじゃない。「なんで(あの人の命が奪われなくちゃいけないんだ)」っていう悲嘆と驚嘆の気持ちからつい口をついて出た言葉だったのですが、多分上司には伝わってないでしょう。まあそれはいいのですが。咄嗟のタメ口にも寛容な上司で良かったです。

「なんで(あの人の命が奪われなくちゃいけないんだ)」と思った背景には、その方がまだ若くて、他の人から期待されていて、誰にでも親切で優しい、将来性のある素晴らしい方だったということがあります。それだけに、信じられなかったし、とても悲しくて驚いた。

しばらく考えて、いや、そういう感想の持ち方って良くないなと思いました。別に、将来有望じゃなくたって、呆気なく奪われていい命なんてない。人の持つ素質で命の重さを決める権利なんて誰も持っていない。自分の考えの浅ましさに嫌気が差しました。

そうして、全く「死」というものを理解も受容もできていない自分に気付きました。ずっと理解しているつもりではいたのに、自分の眼前に降ってくると、遠くに逃げたくなるような気持ちになりました。人生の経験値が足りませんね。どうやったら人の死に向き合えるようになるのだろうか。そんなことを考えました。

故人のご冥福をお祈りします。お世話になりました。

 

人は死ぬ時に何を思うのだろうか?

太宰治玉川上水で愛人と身を投げる前に、思い止まろうとしたのではないかと言われています。

「先生」は絶望と共に生きることに限界を感じ、自死する決断を下したと言います。

まだやりたかったことがあった?会いたい人や食べたいもの、見たい景色、それとも伝えたい言葉があった?もっと生きたかったと思うのでしょうか?

 

結構頻繁に「死ぬこと」について考えます。もし今自分が死んだら、家族は、友人は、会社の人は何を思うのだろうか。自分は、どうなるのだろうか。

これは別に希死念慮があるとか、そんなことではないので安心して頂きたいですし、私は自ら命を絶つようなことは絶対にしないと決めて生きています。

余談ですが、希死念慮はなくても「死」というワードが頻繁に頭をよぎるのは、精神状態があんまり良くないことの兆候らしいので、これを読んで下さった皆様におかれましては何卒お気をつけください。

 

大学4年生の頃、地元の駅に緊急車両が大量に集まっているのを見て、足が竦んで動けなくなったことがあります。今、確かに、ここで人が命を絶った。その事実があまりにも恐怖で、もしかしたらその誰かは自分だったかもしれない、そう考えると駅に近づくことも電車を見ることも苦しかったです。

改札を抜けることはできても、ホームに降りることができなかった。何か、見えない力みたいなのに引っ張られそうになるんですよね。電車が到着するまで上にいて、停車してから階段を降りるようにしていました。学校の相談室にも行ったし、心療内科の受診も考えたけれど、しばらくしたら良くなった。

ただ、これ時々ぶり返すことがあって、そういう時は大体あんまり精神的な調子が良くない時なんですが、人の後ろに並んだり、本や音楽やラジオで気を逸らしたり、めちゃくちゃ創意工夫をこらしながら電車に乗っている、なんてことが今までの人生でちょくちょくありました。頼むから全駅にホームドアを付けて欲しい。ホームドアあると本当に安心できるので。お願いします。

とはいえ、ここ1、2年はそういうことが少し減りました。私は他人に対して敏感で、繊細すぎるのかもしれません。他人の何らかの感情や動作に引っ張られそうになる感覚はきっとそれに起因しているんだろう、となれば、「自分の身体と心は自分でコントロールする、できる」と自分に言い聞かせるようにすればいいんじゃないか。そんなことを心がけるようにしてきたら、多少改善されてきたような気がします。多分ですが、時々自分と他人の境目が曖昧になってしまうんでしょうね、そういう時にきっとおかしくなるんだろうな。境界性パーソナリティ障害というのがあるそうですが、それに近いような状態になる事があるなあと思います。

先程「私は自ら命を絶つようなことは絶対にしない」と書きましたが、きっとそんなことを決意したことも考えたこともないという人もたくさんいるでしょう。わざわざ決意するまでもない、当然のことだと思う人が多いとも思います。そんなことを敢えて宣言するなんておかしいのかもしれません。

でも、自分の精神状態が「おかしくなっている」ことなんてちょっとしたことが原因で起きますし、そうなった時に自分が「最悪の選択肢」を選ばないと言い切ることができるでしょうか?平時は「最悪の選択肢」だと思うことが、「最善の選択肢」になり得ることがないという保証はありますか?そんな時のひとつの指針として、私は「自分の生命を自分で終わらせることはしない」ということを常に心に留めて生きています。

 

これを見て「頭がおかしい」「気が狂ってる」と思う人は、どうかそのまま生きて頂きたい。だってそんなことを考えない生き方の方が楽なんだから。

「わかる」と思った方は、どうか心と身体を大切に。

 

「自分の身体と心は自分でコントロールできる」って、まあ当たり前なことではあるんですが、なかなか気付くのが難しくないですか?勿論理解はしてますよ、言われればその通りだと思うのですが、体感として会得することが本当に難しいことだった、個人的には。

私がこれに気付いた時、日頃行っていたストレッチとヨガがヒントになっていました。私は運動神経が良くないし、今まで何かのスポーツを継続的にやっていたことがない、そして身体がとても固いという、まさに絵に描いたような「運動しない人」なのです。デスクワークばかりの生活でさすがにそれはまずいと思い、家でできるヨガや体操、ストレッチを始めました。3、4年前のことです。

やってみて分かったのは、自分で思った以上に身体が動かないということでした。前にも後ろにも動かない。股関節や足首も信じられないくらい可動域が狭い。

でも、全然動かないながら毎日続けていて、「自分の身体は自分の思った通りに動かせるんだな」と思う瞬間が度々ありました。そして、しっかり呼吸をして心を落ち着かせるフローを繰り返すうちに、「自分の心を多少は自分で統制することができる」ということに気付きました。もっと運動にちゃんと取り組んでいれば、もっと早く気付いたかもしれないのですが。

26年間生きてきましたが、多分自分のコントロールの仕方が分からないまま、ここまで来てしまったのでしょうね。まさに「やっと分かってきたかも このポンコツの操縦の仕方を」という感じです。俺らまだのびしろしかないわ。

 

私はまだほとんど、周りの人の死に直面したことがありません。祖父母は4人とも健在だし、家族も親戚も至って健康。強いて言うなら曾祖母や祖父のお姉さんのお葬式に出たことはありますが、近しい親族は皆生きております。

祖父のお姉さんのお葬式に出席した時のことはよく覚えています。確か大学4年生の頃、先述したようにあまり体調がよろしくなかった時でした。私は「死」というものにあまりに敏感で、繊細すぎたのでしょうね、葬儀場に足を踏み入れた瞬間からずっと、これ以上ないくらい体調が悪かったです。息ができない。気持ち悪い。頭がぐらぐらして、自分が自分を見下ろしているような。それこそ死んでるのは自分なんじゃないかと思うような。もう途中から外出てロビーで横になっていたくらいです。帰りの車に乗せられて葬儀場を後にしたらすぐに元気になりました。

周りの親戚が全員健在ということはとても喜ばしいことであると同時に、死と向き合わなくてはなくなる機会がそれだけ待ち受けていることでもあります。私はそれを乗り越えられるだろうか。最愛の家族を喪って、立ち続けることができるのだろうか。全部覚悟しているつもりですが、全く自信はありません。どうか皆、少しでも長く元気に生きてほしい。そして自分も、少しでも長く生きたい。

 

なんだか重たい話ばかりをしてしまいました。ごめんなさいね。こんな話をしているけど、私は元気ですし、ちょうど心療内科への通院も完了したところです。

 

「間違った旅路の果てに正しさを祈りながら」

 

なかなか思い通りにならない身体も心も全部受け入れてやろうじゃないか。彩鮮やかな人生を送ろう。笑って人生を終わることができれば、それでいい。そう言い聞かせるように、今日も音楽を聴きながら家までの道を歩いています。冬は空気が澄んで星が綺麗です。

 

 

(歌詞引用:『のびしろ』 作詞:R‐指定

ロストマン』 作詞:藤原基央